京浜産業株式会社は、1946年10月10日に創業致しました。
創業者の祖父・酒匂雅三は、海軍に10年8ヶ月勤務し、昭和19年8月から1年間、駆逐艦「初霜」の最年少艦長(当時30歳)として、勤務致しました。
特に戦艦大和を基幹とする第二艦隊海上特攻作戦(沖縄特攻作戦)では、船員の命を1人たりとも落とさず、更には海に投げ出された他船員の救助にも尽力、帰還した事は本人の感慨であり、私にとっても自慢の祖父でした。
常に「普通の逆を発想し、人とは違う行動」で窮地を凌ぎ、お仕着せのセオリーを鵜呑みにせず自らの現場経験に基づく現実性ある考動を頼りに活路を切り開きました。それが、軍人として歴史上に小さいながらも名を残せた由縁です。
そのような祖父が戦後、今度は起業家となって「鉄」の世界に身を置き、ここでも元来の性分でまずは大手問屋の旧岩井産業(現・双日)を通じてルートを開拓し、そこを起点にもともと好きだった「モノづくり」を武器に、製造業大手にアプローチして商売の突破口を開きました。
業容拡大にあわせて戸塚工場を建設した後、駆逐艦「初霜」を建造した住友重機械工業株式会社様から浦賀ドック向け造船カットプレートのご依頼がきっかけとなって、現在の厚板専門拠点である久里浜工場を建設致しました。厚板の加工原点は、まさに「初霜」が導いてくれた鉄・加工・人の縁であったのです。
その後、幾多の景気浮沈による荒波も、まさに駆逐艦の如く変化に応じて姿かたちを柔軟に変えながらわが国の重厚長大産業という巨艦を支えるべく、今日まで社業発展に努めて参りました。
京浜産業株式会社として加工業に従事して以降、常にお客様の最終製品にどれだけ近づく事ができるか付加価値を高める為の独自努力が必要、と常々口にしておりました。
創業者が溶接事業を立ち上げ、先代が機械加工事業を立ち上げ、そして私が三代目として加工業・ノウハウを踏襲し、新たに改定した企業理念を元に、国内インフラの発展に貢献していく所存です。
代表取締役 酒匂雅喜
昭和21年10月 | 鋼材販売業として京浜産業株式会社を設立 |
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昭和39年2月 | 京浜鋼板工業株式会社(金沢工場)を設立 東急車輌製造株式会社との合弁会社として薄中板一次及び二次加工を開始 |
昭和43年10月 | 戸塚工場完成(中厚板の溶断加工等)、後に熱延レベラーを導入し、 コイルセンターとする |
昭和45年3月 | 本牧工場完成(鋼板の販売拠点) |
昭和46年4月 | 久里浜工場完成(厚板の溶断加工) |
平成8年12月 | 幸浦工場(倉庫)完成(本牧工場収容に伴う) |
平成10年7月 | 田中厚板株式会社の事業を承継 |
平成11年7月 | 久里浜工場に新棟を増設、田中厚板工場休止し厚板溶断設備を集約 |
平成12年4月 | 明和鋼業株式会社の事業を承継、鋼管継手類取扱開始 |
平成12年6月 | 本社・久里浜工場で ISO9002 認証取得 |
平成13年4月 | 追浜工場を設置、造船部材の剪断加工業務受入れ |
平成13年11月 | 本社・金沢工場で ISO9001/2000 認証取得 |
平成14年9月 | 久里浜工場・戸塚工場でもISO9001/2000 認証取得 |
平成16年4月 | 久里浜工場に機械加工部門を設置、溶断から溶接・製缶・機械加工迄の 一貫体制を確立 |
平成16年10月 | 戸塚工場に大型レーザー切断機を設置し、レベラーからレーザー、 2次/3次加工迄の一貫工場とする |
平成19年2月 | 創立60周年式典開催 |
平成24年2月 | 群馬県館林市に営業所開設 |
平成25年3月 | 京浜鋼板工業株式会社解散 |
平成27年10月 | TPS(トヨタ生産方式)活動開始 |
平成31年3月 | 館林営業所を群馬県太田市に移転、北関東営業所と改称 |
令和4年5月 | 久里浜新工場・事務所完成 |
令和4年12月 | 追浜工場並びに北関東営業所を閉鎖 |
令和5年11月 | 営業機能を久里浜工場に集約、新体制に |
社風ややりがいなどをご紹介